占領下奇譚 · 第五話「松川の犬釘」

昭和二十四年秋、東京・日比谷

コロナに杉田が来たのは、福島から戻って一週間後だった。

いつものように、奥の席だった。いつものように、杉田はコーヒーを頼んでいた。いつものように、笑顔だった。

しかしその笑顔に、今日は何かが違った。

温度がない、という意味では以前と同じだった。ただ、その無温度の奥に、今日は別の何かがある。測りかねる何かが、杉田の目に宿っていた。

「松川の件で、福島に行きましたね」

杉田は開口一番そう言った。

挨拶もなかった。

*  *  *

神崎は珈琲を一口飲んでから、答えた。

「行っていません」

「そうですか」

また同じ問答だった。

帝銀事件の時も、下山総裁の件でも、三鷹の時も、似たような問答をした。神崎が「知らない」と言い、杉田が「そうですか」と受けた。その儀式を繰り返してきた。

しかし今日は、杉田が続けた。

「神崎さん。あなたは優秀な人間だ」

神崎は答えなかった。

「本当に」

杉田は笑顔のまま言った。笑顔だから分からないのか、笑顔だから分かるのか、その判断が難しい種類の笑いだった。

「ただ——」

杉田は珈琲カップを置いた。

「優秀すぎる人間は、長く生きられないこともある」

*  *  *

沈黙が落ちた。

コロナの店内には、他の客の会話が遠く漂っていた。誰かが英語で笑っていた。アメさんの将校たちが奥のテーブルを囲んでいた。

神崎は珈琲を飲み干した。

(忠告か。あるいは脅しか)

どちらでも、意味は同じだった。

「……ありがとうございます」

神崎はそう言って、立ち上がった。

上着を取り、財布を出した。

「お代は」

「結構です」

杉田は手で制した。いつもと同じだった。神崎はその手を見た。日系二世の手。アメリカで生まれ、日本で戦争を終えた男の手。この手が今日、何を意味しているのか、神崎には最後まで分からなかった。

コロナの扉を出ると、秋の日差しが降っていた。

日比谷の銀杏が、少し黄みを帯び始めていた。

神崎はゴールデンバットに火をつけ、歩き始めた。

(長く生きられないこともある)

杉田の言葉が、煙草の煙の向こうで揺れていた。

― 続く ―

最終章「八 まあ、そういうことだ」——浜田荘に戻った神崎は、押し入れの奥から南部十四年式の拳銃を取り出した。丹羽。三浦。江川。桑原——できたことと、できなかったことを、静かに数えた。