コロナに杉田が来たのは、福島から戻って一週間後だった。
いつものように、奥の席だった。いつものように、杉田はコーヒーを頼んでいた。いつものように、笑顔だった。
しかしその笑顔に、今日は何かが違った。
温度がない、という意味では以前と同じだった。ただ、その無温度の奥に、今日は別の何かがある。測りかねる何かが、杉田の目に宿っていた。
「松川の件で、福島に行きましたね」
杉田は開口一番そう言った。
挨拶もなかった。
神崎は珈琲を一口飲んでから、答えた。
「行っていません」
「そうですか」
また同じ問答だった。
帝銀事件の時も、下山総裁の件でも、三鷹の時も、似たような問答をした。神崎が「知らない」と言い、杉田が「そうですか」と受けた。その儀式を繰り返してきた。
しかし今日は、杉田が続けた。
「神崎さん。あなたは優秀な人間だ」
神崎は答えなかった。
「本当に」
杉田は笑顔のまま言った。笑顔だから分からないのか、笑顔だから分かるのか、その判断が難しい種類の笑いだった。
「ただ——」
杉田は珈琲カップを置いた。
「優秀すぎる人間は、長く生きられないこともある」
沈黙が落ちた。
コロナの店内には、他の客の会話が遠く漂っていた。誰かが英語で笑っていた。アメさんの将校たちが奥のテーブルを囲んでいた。
神崎は珈琲を飲み干した。
(忠告か。あるいは脅しか)
どちらでも、意味は同じだった。
「……ありがとうございます」
神崎はそう言って、立ち上がった。
上着を取り、財布を出した。
「お代は」
「結構です」
杉田は手で制した。いつもと同じだった。神崎はその手を見た。日系二世の手。アメリカで生まれ、日本で戦争を終えた男の手。この手が今日、何を意味しているのか、神崎には最後まで分からなかった。
コロナの扉を出ると、秋の日差しが降っていた。
日比谷の銀杏が、少し黄みを帯び始めていた。
神崎はゴールデンバットに火をつけ、歩き始めた。
(長く生きられないこともある)
杉田の言葉が、煙草の煙の向こうで揺れていた。