占領下奇譚 · 第五話「松川の犬釘」

昭和二十四年秋、東京・神田

東京に戻ってから三日後、神崎は玉菊に寄った。

特別な理由はなかった。ただ、どこかに座りたかった。人の声が遠くに聞こえる場所で、煙草を吸いたかった。

暖簾をくぐると、幸子が奥から出てきた。

「いらっしゃい」

そして、神崎の顔を見た瞬間に言った。

「また煙草臭い」

いつもと同じ言葉だった。神崎はいつもと同じように、何も言わなかった。

*  *  *

燗酒を一本頼んだ。

カウンターの端に座り、小さな猪口で飲んだ。幸子は奥で仕込みをしながら、余計なことを言わなかった。玉菊のいいところは、それだった。

新聞が棚の上に置いてあった。

神崎は手を伸ばし、広げた。

丹羽庄司らの起訴に関する記事が、社会面の下段に出ていた。「松川事件、二十名を正式起訴」。三名の死刑が求刑される見通し、と書いてあった。

神崎は記事を読み、新聞を畳んだ。

(死刑か)

燗酒を飲み干した。

*  *  *

「知ってる人ですか」

幸子が、奥から聞いた。

神崎は少し間を置いた。

以前にも同じことを聞かれた記憶がある。下山総裁の記事を読んでいた時だったか、三鷹事件の記事の時だったか。その時は「いいえ」と答えた。

今回は違った。

「……少しだけ」

神崎は静かに答えた。

幸子は「そうですか」とだけ言った。追わなかった。

それ以上は何も聞かなかった。奥で包丁の音がした。大根を刻む音だった。

神崎は猪口に残った酒を飲み、しばらく空の猪口を見つめた。

丹羽庄司の顔を、思い出した。第二話で会った時の、あの真っ直ぐな目。九万五千人の仲間のために走り回っていた、あの純粋さ。神崎が報告書から名前を外した、あの瞬間。

(それが、今日のこの記事につながっている)

自分が守ろうとしたことと、その結果として起きたことが、まっすぐに線でつながっていた。

新しい燗酒を頼んだ。

幸子が徳利を持ってきた。

「秋になりましたね」

「……そうだな」

神崎はそれだけ言った。

窓の外では、夜の神田の風が、細い路地を通り抜けていった。

― 続く ―

次章「七 杉田との最後」——福島から戻って一週間後、コロナに杉田が来た。「松川の件で、福島に行きましたね」——「行っていません」——しかし今日の杉田は、いつもと違った。「優秀すぎる人間は、長く生きられないこともある」