東京に戻ってから三日後、神崎は玉菊に寄った。
特別な理由はなかった。ただ、どこかに座りたかった。人の声が遠くに聞こえる場所で、煙草を吸いたかった。
暖簾をくぐると、幸子が奥から出てきた。
「いらっしゃい」
そして、神崎の顔を見た瞬間に言った。
「また煙草臭い」
いつもと同じ言葉だった。神崎はいつもと同じように、何も言わなかった。
燗酒を一本頼んだ。
カウンターの端に座り、小さな猪口で飲んだ。幸子は奥で仕込みをしながら、余計なことを言わなかった。玉菊のいいところは、それだった。
新聞が棚の上に置いてあった。
神崎は手を伸ばし、広げた。
丹羽庄司らの起訴に関する記事が、社会面の下段に出ていた。「松川事件、二十名を正式起訴」。三名の死刑が求刑される見通し、と書いてあった。
神崎は記事を読み、新聞を畳んだ。
(死刑か)
燗酒を飲み干した。
「知ってる人ですか」
幸子が、奥から聞いた。
神崎は少し間を置いた。
以前にも同じことを聞かれた記憶がある。下山総裁の記事を読んでいた時だったか、三鷹事件の記事の時だったか。その時は「いいえ」と答えた。
今回は違った。
「……少しだけ」
神崎は静かに答えた。
幸子は「そうですか」とだけ言った。追わなかった。
それ以上は何も聞かなかった。奥で包丁の音がした。大根を刻む音だった。
神崎は猪口に残った酒を飲み、しばらく空の猪口を見つめた。
丹羽庄司の顔を、思い出した。第二話で会った時の、あの真っ直ぐな目。九万五千人の仲間のために走り回っていた、あの純粋さ。神崎が報告書から名前を外した、あの瞬間。
(それが、今日のこの記事につながっている)
自分が守ろうとしたことと、その結果として起きたことが、まっすぐに線でつながっていた。
新しい燗酒を頼んだ。
幸子が徳利を持ってきた。
「秋になりましたね」
「……そうだな」
神崎はそれだけ言った。
窓の外では、夜の神田の風が、細い路地を通り抜けていった。