占領下奇譚 · 第五話「松川の犬釘」

昭和二十四年秋、東京・神保町

浜田荘に戻ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。

廊下は暗かった。電球が切れかけているのか、薄橙色の光がちらちらと揺れていた。隣の部屋から、引揚者の男が鼻唄を唄っているのが聞こえた。何の唄か分からなかった。満州か朝鮮か、どこかの地で覚えた唄だろうか。

神崎は三畳の部屋に入り、鍵をかけた。

電灯のひもを引いた。六十ワットの裸電球が、部屋を照らした。卓袱台。灰皿。ゴールデンバットの空箱が一つ。それだけの部屋だった。

神崎は胡座をかいて、卓袱台の前に座った。

*  *  *

しばらく、そのままでいた。

都電の音が、窓の外を通り過ぎた。レールの上を走る鉄の音は、どこか規則正しく、どこか冷たかった。

(松川の線路も、今はもう修復されているだろう)

そう思った。

犬釘は打ち直され、レールは固定され、列車は走っている。三名の乗務員が死んだあの夜のことは、線路の上には何も残っていない。

*  *  *

神崎は押し入れを開けた。

奥の隅に、布に包んだ物がある。

手を伸ばし、布を開いた。

南部十四年式の拳銃だった。

満州から持ち帰ったものだ。終戦後、武装解除の混乱の中で手元に残った。CICに協力するようになってからも、杉田には申告しなかった。なぜ申告しなかったのか、自分でも理由がよく分からなかった。

使ったことはない。

装填もしていない。

ただ、そこにあった。

神崎はしばらく、それを見つめた。

(これを使う局面が来たとしたら)

その問いが浮かんだ。しかし次の問いに続かなかった。誰を撃つのか。何のために撃つのか。撃った後どこへ行くのか。何も、続かなかった。

神崎は布を戻し、押し入れを閉めた。

*  *  *

煙草に火をつけた。

ゴールデンバットの新しい箱を開けた。一本抜いて、マッチで火をつけた。

煙草の煙が、電球の光の中に細く昇った。

(丹羽庄司は、今どこにいるか)

拘置所だろう。東京か仙台か、あるいはもう移送されたか。

二十九歳。純粋な目をした男。九万五千人の仲間のために走り回って、労組の集会で声を枯らして、神崎に「なぜあなたはここに来るんですか」と問い返した、あの男が。今、松川事件の「首謀者」として起訴されている。

(三浦功は)

三鷹事件で逮捕された国鉄の運転士。神崎が「無実だ」と杉田に言い、「もう決まったことだ」と返された男。あの男も今、留置所にいる。

(江川総裁は)

七月五日の朝、常磐線の線路の上で発見された。神崎が「ひとりで来られる場所ではない」と確信しながら、報告書に「異常なし」と書いた、あの男。

(桑原誠一は)

帝銀事件の後、冤罪で逮捕された画家。旧七三一部隊に繋がる何かを、神崎は知っていた。知っていて、黙った。

*  *  *

神崎は煙草を吸った。

煙を吐いた。

もう一度吸った。

自分にできたことと、できなかったことを、静かに数えた。

丹羽の名前を報告書から外したこと。それはできた。

しかしその先で丹羽が逮捕されることを止められなかったこと。それはできなかった。

三浦が無実だと杉田に言ったこと。それはできた。

しかし杉田の「もう決まった」を覆せなかったこと。それはできなかった。

松川へ行き、工具の痕跡を調べ、荒木巌に辿り着いたこと。それはできた。

しかし杉田がトランクに証拠を積むのを見て、何も言わなかったこと。それを——した。

(できなかったのか。しなかったのか)

その境目が、どこにあるのかを、神崎はずっと考えていた。

今夜も分からなかった。

おそらく死ぬまで分からないだろうと、神崎は思った。

*  *  *

煙草が短くなった。

灰皿に押しつけて消した。

隣の部屋の鼻唄が、いつの間にか止んでいた。

都電がまた通り過ぎた。レールの音が遠ざかり、秋の夜の静けさが戻ってきた。

神崎は窓の外を見た。

神保町の夜は暗かった。街灯がまばらで、焼け跡の残るバラックが黒い影を作っていた。どこかで犬が鳴いた。遠くに、GHQの施設の灯りが見えた。

「……まあ、そういうことだ」

神崎は、誰にともなく言った。

その言葉の意味を、神崎自身が説明できたわけではなかった。ただその言葉だけが、今夜この三畳の部屋で、自分の口から出てくる言葉だった。

新しい煙草に火をつけた。

*  *  *

神崎修二が、その後どう生きたかを知る者は少ない。

丹羽庄司は有罪判決を受け、長い裁判の末に釈放されるまで、神崎が生きているかどうかも定かではない。

ただ、昭和二十四年の秋、神保町の三畳一間で、ひとりの男が煙草を吸いながら、自分のした選択と、できなかったことの間に静かに座っていた。

彼が正しかったかどうか。

今となっては、誰にも分からない。

― 了 ―