浜田荘に戻ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
廊下は暗かった。電球が切れかけているのか、薄橙色の光がちらちらと揺れていた。隣の部屋から、引揚者の男が鼻唄を唄っているのが聞こえた。何の唄か分からなかった。満州か朝鮮か、どこかの地で覚えた唄だろうか。
神崎は三畳の部屋に入り、鍵をかけた。
電灯のひもを引いた。六十ワットの裸電球が、部屋を照らした。卓袱台。灰皿。ゴールデンバットの空箱が一つ。それだけの部屋だった。
神崎は胡座をかいて、卓袱台の前に座った。
しばらく、そのままでいた。
都電の音が、窓の外を通り過ぎた。レールの上を走る鉄の音は、どこか規則正しく、どこか冷たかった。
(松川の線路も、今はもう修復されているだろう)
そう思った。
犬釘は打ち直され、レールは固定され、列車は走っている。三名の乗務員が死んだあの夜のことは、線路の上には何も残っていない。
神崎は押し入れを開けた。
奥の隅に、布に包んだ物がある。
手を伸ばし、布を開いた。
南部十四年式の拳銃だった。
満州から持ち帰ったものだ。終戦後、武装解除の混乱の中で手元に残った。CICに協力するようになってからも、杉田には申告しなかった。なぜ申告しなかったのか、自分でも理由がよく分からなかった。
使ったことはない。
装填もしていない。
ただ、そこにあった。
神崎はしばらく、それを見つめた。
(これを使う局面が来たとしたら)
その問いが浮かんだ。しかし次の問いに続かなかった。誰を撃つのか。何のために撃つのか。撃った後どこへ行くのか。何も、続かなかった。
神崎は布を戻し、押し入れを閉めた。
煙草に火をつけた。
ゴールデンバットの新しい箱を開けた。一本抜いて、マッチで火をつけた。
煙草の煙が、電球の光の中に細く昇った。
(丹羽庄司は、今どこにいるか)
拘置所だろう。東京か仙台か、あるいはもう移送されたか。
二十九歳。純粋な目をした男。九万五千人の仲間のために走り回って、労組の集会で声を枯らして、神崎に「なぜあなたはここに来るんですか」と問い返した、あの男が。今、松川事件の「首謀者」として起訴されている。
(三浦功は)
三鷹事件で逮捕された国鉄の運転士。神崎が「無実だ」と杉田に言い、「もう決まったことだ」と返された男。あの男も今、留置所にいる。
(江川総裁は)
七月五日の朝、常磐線の線路の上で発見された。神崎が「ひとりで来られる場所ではない」と確信しながら、報告書に「異常なし」と書いた、あの男。
(桑原誠一は)
帝銀事件の後、冤罪で逮捕された画家。旧七三一部隊に繋がる何かを、神崎は知っていた。知っていて、黙った。
神崎は煙草を吸った。
煙を吐いた。
もう一度吸った。
自分にできたことと、できなかったことを、静かに数えた。
丹羽の名前を報告書から外したこと。それはできた。
しかしその先で丹羽が逮捕されることを止められなかったこと。それはできなかった。
三浦が無実だと杉田に言ったこと。それはできた。
しかし杉田の「もう決まった」を覆せなかったこと。それはできなかった。
松川へ行き、工具の痕跡を調べ、荒木巌に辿り着いたこと。それはできた。
しかし杉田がトランクに証拠を積むのを見て、何も言わなかったこと。それを——した。
(できなかったのか。しなかったのか)
その境目が、どこにあるのかを、神崎はずっと考えていた。
今夜も分からなかった。
おそらく死ぬまで分からないだろうと、神崎は思った。
煙草が短くなった。
灰皿に押しつけて消した。
隣の部屋の鼻唄が、いつの間にか止んでいた。
都電がまた通り過ぎた。レールの音が遠ざかり、秋の夜の静けさが戻ってきた。
神崎は窓の外を見た。
神保町の夜は暗かった。街灯がまばらで、焼け跡の残るバラックが黒い影を作っていた。どこかで犬が鳴いた。遠くに、GHQの施設の灯りが見えた。
「……まあ、そういうことだ」
神崎は、誰にともなく言った。
その言葉の意味を、神崎自身が説明できたわけではなかった。ただその言葉だけが、今夜この三畳の部屋で、自分の口から出てくる言葉だった。
新しい煙草に火をつけた。
神崎修二が、その後どう生きたかを知る者は少ない。
丹羽庄司は有罪判決を受け、長い裁判の末に釈放されるまで、神崎が生きているかどうかも定かではない。
ただ、昭和二十四年の秋、神保町の三畳一間で、ひとりの男が煙草を吸いながら、自分のした選択と、できなかったことの間に静かに座っていた。
彼が正しかったかどうか。
今となっては、誰にも分からない。