占領下奇譚 · 第五話「松川の犬釘」

昭和二十四年八月十七日、東京

夕刊は五時過ぎに届いた。

神崎は浜田荘の卓袱台の前に胡座をかいたまま、それを手に取った。表面の活字が、夏の残光の中で滲んでいた。

見出しは、七段抜きだった。

*  *  *

神崎は読んだ。

もう一度、読んだ。

煙草に火をつけた。

「松川」という地名に、神崎は覚えがなかった。ただ「福島」の二文字が、何かの引き金を引いた。そして「国鉄」の文字が、その引き金を完全に落とした。

(また、国鉄だ)

一月の帝銀事件。三月の労組潜入工作。七月の下山総裁。七月十五日の三鷹。

今年に入ってから、国鉄という文字は、死の匂いと一緒に現れる。

*  *  *

記事を読み続けた。

脱線の原因は「線路の破壊工作」と見られる、と書かれていた。犯人は不明。捜査中。

その一行を読んだ瞬間、神崎の胸の中で何かが動いた。

(破壊工作)

煙草の灰が、卓袱台の隅に落ちた。

第二話で接触した国鉄労組の幹部たちの顔が、一人ずつ浮かんだ。杉田に渡した報告書の中から、こっそり外した名前がある。丹羽庄司。福島地区の委員。純粋な目をした二十九歳の男だった。

(丹羽)

神崎は記事を畳の上に置いた。

窓の外では都電が通り過ぎた。夏の夕暮れが、焼け跡の街に橙色の影を落としていた。蟬の声が遠くに聞こえた。

煙草を最後まで吸い、神崎は新しい一本を取り出した。

記事を、また読んだ。

福島。松川。列車転覆。乗務員三名死亡。

字面だけ見れば、それだけのことだった。

しかし神崎の皮膚が、何かを告げていた。

(これは終わっていない)

煙草の煙が、三畳の空間に細く漂った。神崎はそれを目で追いながら、何も言わなかった。

ゴールデンバットの箱には、あと三本残っていた。

― 続く ―

次章「二 福島へ」——八月下旬、「丹羽庄司ら二十名が逮捕」という見出しを朝の新聞で読んだ。神崎は杉田に何も言わなかった。これは任務ではない——上野駅の改札を抜けたのは、翌朝の七時だった。