「最近、顔色がどんどん悪くなる」
幸子は神崎の顔を見てそう言った。
七月の終わりに近い夜、玉菊に寄ると、幸子はいつもより早く徳利を出した。「顔を見れば分かる」と続けた。「眠れてないでしょ」
「少し」
「少しって、何時間」
「……三時間か、四時間」
「それは、眠れてないって言う」
幸子はカストリを注ぎながら、神崎の左手の薬指を一瞬見た。欠けた指先。それから視線を戻した。
「松川の話、聞いた?」
幸子が言ったのは、神崎が二杯目を飲んでいるときだった。
「松川」
「福島の方。線路の事故だって。列車が脱線して、乗務員が死んだって聞いた。こっちとは別の話だけど——また国鉄の話でしょ」
神崎は杯を置いた。
(また福島、か)
「いつの話ですか」
「今月の半ば頃だって」
十七日。神崎は数字を頭の中で確かめた。三鷹の二日後。
「で、なんか——名前の挙がってる人の中に、丹羽なんとかって人がいるって話を聞いたんだけど」
神崎の指が、杯の縁でわずかに止まった。
「なんか知ってる人ですか?」
幸子が聞いた。
「……いや」
神崎は答えた。
短すぎる答えだと、幸子には分かるだろうと思った。幸子は神崎の嘘をすぐに見抜く。しかし今夜は、それ以上のことを言えなかった。言葉を続ければ、その先に何が来るかを、神崎自身が恐れていた。
幸子は何も言わなかった。
徳利を持ち上げ、また注いだ。それだけだった。
カストリの臭いが立った。神崎はそれを飲んだ。舌が痺れた。
三鷹。松川。江川。丹羽。三浦。
名前が夏の夜に重なっていった。一人の人間では、どう引いても繋がらない点の数が、今この国の上に散らばっていた。
(八月が来る)
神崎は感じた。
まだ七月だった。しかし八月の気配が、すでにそこにあった。昭和二十四年の夏は、まだ終わっていない。
八月十七日。
その日付が、神崎の頭の中で根拠もなく浮かんだ。どこかで聞いた数字か、それとも自分が作った予感か、区別がつかなかった。
(また、誰かが捕まる)
(また、誰かが問題ないと言う)
幸子がラジオをつけた。
夏の流行り歌が流れ始めた。陽気な節だった。焼け跡の東京には似合いすぎる、陽気な節だった。
神崎は杯を両手で持ち、歌を聴いた。
外では、昭和二十四年の夏が、まだ続いていた。