神崎が江川英太郎を初めて間近で見たのは、この日が初めてだった。
国鉄本社の玄関を出てきた江川は、五十四、五といったところだろうか。丸眼鏡をかけた温和な顔をしていた。その顔だけ見れば、町の文具店の主人でも通りそうな柔らかさがある。しかし目だけは違った。丸眼鏡の奥の目が、疲れていた。深く疲れていて、その奥にある何かが、もう動かなくなっているような目だった。
公用車のドアを秘書が開けた。江川は無言で乗り込んだ。
神崎は二十メートル後方から、タクシーで追った。
最初の訪問先は丸の内の事務所だった。
江川は一時間ほど中に入り、出てきた。表情に変化はなかった。公用車はそのまま霞が関方面へ向かった。
次に立ち寄ったのは、官庁街の一室だった。国鉄の経営問題を巡る会議らしかった。神崎は外で煙草を吸いながら待った。二時間が経った。
夜の八時を過ぎた頃、江川が再び公用車に乗り込んだ。
今度は方向が違った。
新橋方面へ向かう車の後を、神崎は追いながら手帳にメモを取った。訪問先の時刻、移動ルート、同行者の数。「護衛補助」の名目上、こうした記録が必要だと命令書には書かれていた。記録することが、この任務の本体だと、神崎にはもうわかっていた。
(護衛ではない。監視だ)
煙草を一本吸い終わる前に、それは明らかになっていた。
深夜十一時を過ぎた頃、状況が変わった。
江川が泊まっているはずのホテルの玄関で、公用車が止まった。江川が降りた。秘書が付き従う。そのまま消えるはずだった。
ところが。
三十分後、江川が一人でホテルの玄関から出てきた。
秘書はいない。
黒い自動車が一台、玄関の脇に止まっていた。江川はその助手席に乗り込んだ。ドアが閉まった。
神崎はタクシーの中で前を見た。
(追うか)
自問した時間は、短かった。
タクシーは動き出そうとしていた黒い自動車の方向へ声をかけようとした瞬間、前方の信号が赤に変わり、別の車が割り込んだ。
黒い自動車は夜の東京に消えた。
神崎は手帳を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
(追わなかった)
正確には、追えなかった。そして——追わないことを、選んだ。
二つの選択が、ほとんど同時に起きた。神崎には、その境目が今もはっきりしなかった。
手帳の最後のページに、神崎はひとこと書いた。
「二十三時十五分、ホテルにて確認。異常なし」
その文字を書きながら、神崎は窓の外の夜を見た。
七月の東京の夜は、黒かった。