占領下奇譚 · 第二話「赤い春」

昭和二十四年五月、福島

五月の中旬、宿の部屋で神崎は報告書を書いた。

薄い卓袱台の上に便箋を広げ、万年筆を手に取った。窓の外は夕暮れで、川沿いの柳が風に揺れていた。

名前を書き始めた。

国鉄福島地区労働組合——幹部および活動的組合員リスト。氏名、年齢、役職、党との関係、活動の傾向。一人ずつ、観察した結果を書いていった。

三十分かけて、十七人分を書いた。

丹羽庄司の欄まで来たとき、神崎の手が止まった。

(書ける)

書くことは、できた。丹羽に関して神崎が得た情報は充分だった。共産党員であること、地区委員会との連絡役を務めていること、組合の中核として若い組合員から信頼されていること——すべて事実だった。

しかし神崎は便箋から目を上げ、窓の外を見た。

夕暮れの柳が揺れていた。

(人間の目をしている)

丹羽の言葉が、胸の底に引っかかったまま、一週間以上そこにいた。

神崎は万年筆を置き、煙草を一本吸った。ゴールデンバットの煙が、夕暮れの狭い部屋に広がった。

(分かっていた上で、黙っていた)

丹羽は神崎がスパイだと知っていた。それでも集会に通わせた。飯を食った。話をした。なぜそうしたかを、丹羽は説明しなかった。

説明しなかったのは、説明できないからではないと、神崎には分かった。

説明する必要がないと思っていたのだ。人間として扱う、それだけの話として。

*  *  *

神崎は新しい便箋を取り出した。

丹羽庄司の名前を書き、「穏健派、過激行動に消極的、影響力は限定的」と記した。

そして別の名前——別所という男の名を、リストの最上位に置いた。

実際に急進派の別所は、集会でたびたび暴力的な言辞を使い、若者を煽っていた。リストに入れることへの躊躇いは薄かった。ただ、丹羽の代わりに別所の評価を引き上げた、という構造があった。

(操作だ)

神崎は自分が何をしているかを分かっていた。分かっていてやっていた。

この操作が通れば、丹羽は重要人物リストの外れた位置に置かれる。通らなければ——杉田が読んで何かに気づけば——何も変わらない。丹羽は別の経路でリストに載る。

あるいは、神崎が信用を失う。

どちらに転んでも、神崎は何も掴めない。それでも万年筆を動かした。

*  *  *

翌週、東京の杉田に報告書を郵送した。

十日後、杉田から短い返電が来た。

〈受領。引き続き頼む〉

それだけだった。

丹羽の評価に何か言及があるかと思ったが、何もなかった。杉田が何かを読み取っているかどうか、その沈黙からは判断できなかった。

(何も言わないのが、答えかもしれない)

あるいは何も気づいていないのかもしれない。あるいは気づいていて、黙っているのかもしれない。杉田という男は、いつでも判断させてくれなかった。

神崎は返電を二度読み、懐に入れた。

宿の窓から見える川面に、夕日が揺れていた。

― 続く ―
Next 五章「人員整理」——六月初め、国鉄が九万五千人の解雇を正式発表する。会館は人で溢れた。丹羽は壇上に立ち、怒りを静めようとした。