四月の末、神崎は丹羽庄司と初めて向かい合った。
集会の後、会館の裏手に回ると、男が一人で煙草を吸っていた。街灯の下に立つその男が丹羽だと、神崎はすぐに分かった。後ろ姿で何度も見ていた。
「求職中の人?」
丹羽が先に口を開いた。声は低く、穏やかだった。
「そうです。水戸の工場を辞めて」
「辞めた、じゃなくて?」
沈黙があった。
神崎は煙草を取り出した。「辞めさせられました」
「そうか」丹羽は神崎の方を向かなかった。煙草の煙を空に吐きながら、夜空を見ていた。「三月から何人も来てる。同じような人が。整理されて、行き場がない人たちが」
「組合に入れてもらえますか」
「それはいい」丹羽はようやく神崎を見た。
三十前の顔だった。やせているが目に力があった。疲れた顔ではなく、何かを見据えている顔だった。信念を持っている人間の顔を神崎は幾人か知っていたが、丹羽のそれは少し違った。信念というより——人間への注意、とでも言うような何かだった。
「あんた、強い人だね」
唐突に丹羽が言った。
「は?」
「強い、というか——慣れてる人だ。場に慣れてる」
神崎は答えなかった。
それから一週間が経った。
神崎は週に二度、集会に通った。組合員たちと昼飯を食い、話を聞いた。誰が急進派で誰が穏健か、誰が共産党の指示に忠実で誰がそうでないか——見えてきた。封筒のメモに書かれた名前のいくつかが、実際の顔と一致した。
しかし丹羽庄司は、神崎の近くにいつもいた。
偶然のように見えて、偶然ではない気がした。
五月の第一週、集会の後に丹羽が近づいてきた。
「飯でも食べようか」
断る理由がなかった。
駅前の大衆食堂で、二人は向かい合った。丹羽は何も聞かなかった。ただ飯を食いながら、ドッジラインの話をした。労働者が何のために生き、何のために働くかという話をした。神崎は聞いていた。
演説ではなかった。独り言に近かった。しかし言葉に芯があった。
食い終わって、店を出た。
路地の角で丹羽が立ち止まった。
「はっきり聞く」
丹羽は神崎を正面から見た。目が揺れていなかった。「あんた、俺たちのスパイだろう」
神崎は答えなかった。
「CICか、それとも特審か。どちらでもいいけど」
「…………」
「否定しなくていい」丹羽は言った。「顔が答えた」
夜の路地に風が通った。遠くで犬が一声鳴いた。
「なぜ黙っているんですか」と神崎は言った。「追い出さないんですか」
丹羽はしばらく神崎を見ていた。それから短く笑った。笑いに嘲りはなかった。
「あんたは人間の目をしている」
「……それだけですか」
「それで十分だ」
丹羽はそれだけ言って歩き始めた。振り返らなかった。
神崎は路地に立ったまま、しばらく動けなかった。
(人間の目)
左手の薬指の先が、夜風の中で冷えた。