占領下奇譚 · 第四話「無人列車」

昭和二十四年七月下旬、東京

翌日、CIC連絡事務所の廊下でムーア大佐を見かけた。

神崎が書類を届けに来たのは午前の十時だった。廊下を歩いていると、前方に大柄な人影があった。昭和線の現場で見たあの体格。几帳面な軍服。ムーア大佐だった。

大佐は廊下の向こうから歩いてきた。神崎は壁際に寄り、道を空けた。

大佐は神崎に気づいた。

立ち止まった。

薄い笑みが、その口元に浮かんだ。大柄な体が、神崎の前で一瞬だけ止まった。

「ネン・モンダイナイ」

英語でそう言った。"No problem"の日本語訛り。それだけ言って、ムーア大佐は通り過ぎた。

足音が遠ざかった。

*  *  *

神崎は廊下に立ったまま、動かなかった。

煙草を取り出した。

火をつけようとして、廊下であることに気づき、指の間に挟んだだけで止めた。

(ネン・モンダイナイ)

その言葉が何を意味するか、神崎には分かった。

「三浦の件は問題ない」のか。「神崎が何を言っても問題ない」のか。「もう決まったから問題ない」のか。

おそらく、全部だった。

ムーア大佐は神崎を知っていた。昨日の杉田への進言が、すでに大佐に伝わっていたかもしれない。あるいは伝わっていなくても、「この男が何かを言う可能性がある」と計算した上で、それでも「問題ない」と言った。

どちらにしても、結果は同じだった。

神崎は廊下の壁に背をあずけ、火をつけていない煙草を指に挟んだまま、天井を見た。

(問題ない、か)

三浦の子供が、今頃どうしているかを考えた。

十二と九の子供が、父親の逮捕を知っているかどうか。電車が好きな下の子が、今もまだ電車が好きかどうか。

廊下の突き当たりで、電話が鳴り始めた。

― 続く ―

次章「五 松川の話」——七月末近い夜、玉菊で幸子が話した。福島の松川で列車が脱線した。そして名前の挙がっている人の中に——丹羽、という名があると。