占領下奇譚 · 第三話「轟音の七月」

昭和二十四年七月中旬、神田

七月も半ばに差し掛かった頃、神崎は玉菊に寄った。

暖簾をくぐると、来栖幸子はすぐに振り返った。

「また煙草臭い」

「暑いので、多く吸います」

「理由が意味わからない」

幸子はカストリの徳利と小皿を出した。小上がりに上がった神崎は、壁に背をあずけた。天井の染みが、前に来たときより増えていた気がした。雨漏りだろうか。それとも増えたのではなく、神崎の目が鋭くなっただけか。

「顔色が悪い」

「眠れていません」

「珍しい。あなた、いつも石みたいに眠るじゃない」

「今月は夢を見ます」

幸子は何も言わなかった。

*  *  *

カストリを一杯飲んだ頃、幸子が口を開いた。

「三鷹の方で、変なことがあったって聞いた」

神崎は杯を持ったまま、動かなかった。

「電車が、夜中に無人で走ったって。人が死んだって」

「いつの話ですか」

「今週」

幸子は徳利を傾け、神崎の杯を満たした。「国鉄の電車なんでしょ。この間の総裁の件があったし——なんか、国鉄がおかしなことになってるって話があちこちで出てる」

神崎は杯を傾けた。カストリの臭いが鼻を抜けた。

(また、始まった)

そう思った。始まったというよりも——続いている。江川の線路から、三鷹の線路へ。夏の東京の上を、見えない力が走っている。線路の上を、無人の車両が走るように。

「死んだのは、何人ですか」

「六人だって」

神崎は何も言わなかった。

「なんか、知ってる?」

幸子は聞いた。探るような口調ではなかった。ただ、神崎の顔を見ながら。

「……いいえ」

神崎は答えた。

杯を置き、徳利を手に取り、自分で酒を注いだ。幸子はその手元を見ていた。欠けた左手の薬指の先が、白い徳利に触れた。

「夢を見るってどんな夢」

幸子が聞いた。

「……線路の夢です」

神崎は答えた。それ以上は言わなかった。

幸子も、それ以上は聞かなかった。

*  *  *

玉菊を出たのは、夜の十時を過ぎた頃だった。

神保町への道を歩きながら、神崎は煙草に火をつけた。七月の夜の生暖かい空気が、煙を素早く溶かした。

三鷹。国鉄。無人の電車。六人の死。

(誰かが、捕まる)

そうなる。そういう流れだ。江川の件も、誰かが「犯人」に仕立てられることで終わりの形を作る。あるいはすでに仕立てられている。

福島の組合員の顔が、ふと浮かんだ。

丹羽庄司ではなく——もっと周縁にいた、ぼやけた顔たち。神崎がリストに記録した名前たち。あの記録が、今この夏にどう使われているか。

(分からないままだ)

都電が通り過ぎた。その軋む音が、夜の路地に長く残った。

― 第三話・了 ―
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