占領下奇譚 · 第二話「赤い春」

昭和二十四年六月下旬、東京

六月下旬、東京。

有楽町「コロナ」の窓の外は、初夏の光だった。

三月にここに来たとき、雨が降っていた。あれから三ヶ月が経った。外の景色は同じなのに、神崎には何かが変わって見えた。あるいは変わったのは、景色ではなかった。

杉田は窓際の席に座っていた。スーツは今日も濃紺だった。

「ご苦労様でした」

杉田は封筒を受け取り、卓袱台の上に置いた。最終報告書と、二度目の詳細リストが入っていた。

「上に上げます」

それだけだった。

神崎は珈琲を一口飲んだ。「確認をさせてください」

「何を」

「リストの内容は、そのまま使われますか」

「内容を確認した上で、使うかどうかは上が判断する」

「私の評価が、そのまま採用されるかどうかは」

杉田は神崎を見た。微笑んでいた。温度のない微笑みだった。

「それは、私にも分からない」

*  *  *

(分からない)

その言葉が、「コロナ」を出た後もずっと頭の中にあった。

丹羽の名をリストから遠ざけた神崎の操作が、通ったかどうか。杉田がそれに気づいて訂正したかどうか。あるいは気づいた上でそのままにしたかどうか。どれも分からなかった。確かめる手段もなかった。

これから先、丹羽庄司がどうなるかを、神崎は知ることができない。

(そういう仕事だ)

神保町への道を歩きながら、神崎は煙草を吸った。六月の陽射しが路地に差し込んでいた。子供たちが路地の真ん中で遊んでいた。戦後の子供は、焼け跡で育ったせいか、よく遊んだ。場所を選ばなかった。

神崎はその横をすり抜けながら、思った。

制度は正しさを保護しない。個人が何かを曲げようとしても、制度のほうが大きい。大きなものの前で、一人の人間ができることは、砂に一本の線を引くようなものだった。波が来れば、消える。

それでも引かないよりは、引いた方がましだと——思えるかどうか。

まだ、答えは出ていなかった。

*  *  *

夜、玉菊に寄った。

暖簾をくぐると、来栖幸子が振り返りもせずに言った。

「また煙草臭い」

「久しぶりに来ました」

「顔色が悪い」

幸子は神崎の顔を見てそう言った。カストリの徳利を出しながら、続けた。「福島に行ってたんでしょ。三ヶ月も」

「なぜ分かりますか」

「あんたの嘘は、大体分かる」

神崎は小上がりに上がり、杯を手に取った。幸子が傾けてくれた徳利から、白い酒が静かに注がれた。

「どうだった」

「……仕事でした」

「そう」

幸子はそれ以上聞かなかった。

二人はしばらく無言でいた。どこかのラジオから流行り歌が流れていた。声が細く、遠かった。

「ねえ」幸子が言った。「国鉄の総裁、名前を何というか知ってる?」

「江川、ですか」

「そう。江川英太郎」幸子は杯を傾けた。「さっきまでいた客が言ってたけど——その人が次の嵐の目になるって。七月か八月に、何かが起きるって」

神崎は杯を置いた。

「何かとは」

「客は知らなかった。ただ、国鉄が血を見るって言っていた」

血を見る。

その言葉が、神崎の皮膚をざわりと粟立てた。中野学校で鍛えられた感覚だった。七年経っても、鈍らなかった。

国鉄総裁、江川英太郎。九万五千人の解雇命令。組合の激化。そして七月。

(嫌な予感がする)

「また来ます」

神崎は立ち上がった。

「お燗の支度、しとくよ」幸子はいつもの言葉で送り出した。

*  *  *

神保町のアパートに戻ったのは、夜の十一時過ぎだった。

三畳の部屋に電灯は一つ。都電が軋みながら通り過ぎ、薄い壁が揺れた。

神崎は卓袱台の前に胡座をかき、煙草を一本立て続けに吸った。

丹羽庄司のことを考えた。

あの男は今頃、福島の会館で、組合員たちを落ち着かせようとしているかもしれない。怒りを抑え、方向を定め、制度という名の嵐の中で人間として立ち続けようとしているかもしれない。

神崎にできたことは、砂に引いた一本の線だった。

それが消えたかどうか、分からないまま、七月が来ようとしていた。

七月——この夏が、どんな夏になるか。

神崎の皮膚が、昭和二十四年の夜に、静かに粟立っていた。

― 第二話・了 ―
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