八月の東京は、蒸れる。
焼け跡のバラック街に西日が差し込む夕暮れ、神崎は新聞を広げながら板橋の安宿の二階に座っていた。今日だけ借りた部屋だった。理由は、ここが警視庁板橋署の斜め向かいにあるからだ。
新聞の社会面に、小さくない記事が出ていた。
〈帝銀事件 容疑者を逮捕〉
名前は「平田貞雄」とあった。六十二歳。元帝展出品の洋画家。
神崎は記事を三度読んだ。読むたびに、胸の中で何かが鈍く沈んだ。
画家だった。やはり、画家だった。
逮捕の根拠として記事が挙げていたのは、毒物の入手経路でも、事件当日のアリバイの欠如でもなかった。犯人が使った名刺に記された名前と平田の旧知の人物の氏名が似ていたこと。それと、平田の所持品の中に帝国銀行の印刷物があったこと。
(それだけか)
神崎は新聞を折り畳んだ。
窓から署の玄関が見えた。記者らしき男たちが数人、出入り口の近くに張り付いていた。夕暮れの光の中で、彼らの顔は一様に緊張していた。大きな事件の逮捕者が出た、という高揚感がそこにあった。
神崎にはなかった。
(平田貞雄は、やっていない)
確信に近いものがあった。確信の根拠は、神崎自身が七ヶ月かけて追ってきた「朝倉哲也」という人物の存在だった。毒物の知識、名刺の使い方、軍関係施設への出入りの痕跡——それらはすべて、旧731部隼の軍医を指していた。画家ではなく。
問題は、神崎がそれを誰にも言えないことだった。
言えば、自分がこの七ヶ月何を追っていたかを説明しなければならない。それはCICへの報告義務違反を意味した。杉田に話すことも選択肢としてあったが、杉田がすでに知っていながら動かないことを神崎は知っていた。知っていて「動かない」相手に、知っていることを告げることは、ただ自分の手札を晒すだけだった。
窓の下で、板橋署から一台の車が出ていった。
神崎はそれを目で追いながら、煙草を取り出した。ゴールデンバットの一本が、指の間でゆっくりと燃えた。
(平田貞雄は死刑になるかもしれない)
その考えが頭の中を横切ったとき、神崎は煙草を灰皿に押しつけた。まだ半分残っていた。
玉菊に寄ったのは、その夜だった。
来栖幸子は客のいない時間帯に帳簿をつけていた。神崎が入ってくると、顔を上げもせずに「今日は早いね」と言った。
神崎は黙って小上がりに上がり、カストリを一杯だけ注文した。
「新聞、見た?」
「見た」
「どう思う」幸子は帳簿から目を上げた。「あんたは」
神崎はカストリを一口飲んだ。安い焼酎の辛さが、喉の奥を焼いた。「どうも思わない」
幸子はしばらく神崎を見ていた。その目の奥に、何かが揺れているのを神崎は感じたが、読もうとしなかった。
「嘘をつくの、下手だね」幸子は静かに言った。「あんたは」
神崎は答えなかった。
幸子は帳簿を閉じ、自分の分の徳利を取り出した。「あたしね、戦中に似たようなことがあったよ」
「何が」
「知ってることを言えない、ってこと」
神崎は幸子を見た。幸子は自分の杯を見ていた。
「軍の人に頼まれてね、この店に来る客の話を聞いて、報告してたことがある。三年ぐらい」
神崎は動かなかった。
「ある時、うちで飲んでた男が——赤の疑いで憲兵に連れて行かれた。あたしが報告した話が元でね」幸子は一口飲んだ。「その男が本当に赤だったかどうか、あたしには分からなかった。ただ、酔って愚痴をこぼしてただけかもしれなかった。でも言ってしまった後は、もう取り消せなかった」
部屋が静かになった。
「その男は、どうなりましたか」
「知らない」幸子は言った。「知ろうとしなかった。知ったら、続けられなくなるから」
神崎はカストリの残りを飲み干した。空になった杯を、卓袱台に静かに置いた。
幸子が自分と同じ側にいたことを、このとき初めて知った。使われた側。知りながら黙った側。そして今も、その重さを、焼酎で薄めながら生きている側。
「あの名刺の件」と神崎は言った。「もう警察には言わないでください」
「言わないよ」幸子は即座に答えた。「最初から言う気はなかった」
九月になり、秋の気配が東京に漂い始めた頃、杉田から連絡が来た。
有楽町の「コロナ」ではなく、珍しく電話だった。アパートの一階の公衆電話に呼び出しの伝言が入り、神崎が指定された番号にかけると、杉田の声が出た。
「報告書の件で、一つ確認がある」
「はい」
「池袋での対象——あなたが見失ったと書いていた人物だが」杉田は英語に近い発音で言った。「その後、自分で追いましたか」
一拍の間があった。
「追っていません」神崎は言った。
「そうですか」
また間があった。受話器の向こうで、誰かが何かを書く音がした。
「分かりました。ご苦労様」
電話は切れた。
神崎は受話器を置いた。手のひらが、わずかに汗ばんでいた。
(試された)
杉田は神崎が朝倉を追っていたかどうかを確かめたかった。「追っていない」と答えた神崎の嘘を、杉田は信じたか、信じないか——どちらでもよかった。重要なのは、神崎が「追っていない」と言ったという事実だけだった。
これで一つの契約が、言葉なしに結ばれた。
神崎は黙っている。CICも黙っている。平田貞雄という老いた画家が、その沈黙の重さを一人で引き受ける形で、歴史は動いていく。
外に出ると、九月の夕空が赤かった。
都電が一台、がらがらと通り過ぎた。神崎はそれを見送りながら、煙草に火をつけた。
帝銀事件から、八ヶ月が経っていた。
玉菊に最後に寄ったのは、その月の終わりだった。
幸子が「また変な客が来た」と言った。
「変な客?」
「若い男。さっきまでいた。労働組合の話をしてた。国鉄が大変なことになるって」幸子は洗いかけの杯を布で拭きながら言った。「GHQが人を大勢クビにさせるらしい。組合が荒れてるって」
神崎は黙ってカストリを飲んだ。
国鉄の人員整理の話は、神崎もCICの仕事の中で断片的に聞いていた。九万人以上を解雇するという規模の話だった。それほどの人数が一度に職を失えば、労働組合が黙っているはずがない。
「その男、また来そうですか」
「さあ」幸子は杯を棚に戻した。「でも顔は覚えた」
神崎は立ち上がり、財布から金を出した。
国鉄。労働組合。GHQ。
次に何かが起きるとすれば、その三つが交差するところだと、神崎の皮膚が告げていた。中野学校で鍛えられた、その感覚だけは、まだ鈍っていなかった。
「また来ます」
「いつでも」幸子は言った。「お燗の支度、しとくよ」
神崎は暖簾をくぐり、九月の夜の路地に出た。
焼け跡の臭いは、もうほとんどしなくなっていた。代わりに、何か別の臭いが東京に漂い始めていた。神崎はそれを嗅ぎながら、神保町に向かって歩きだした。
来年の夏がどんな夏になるか、このときの神崎には、まだ知る由もなかった。